横浜・山下町にある「横浜ホテル」のプールバーが、日本ではじめてできたバーであることは前回お伝えした。
さて、今回はその後のストーリーをお話しましょう。
当時、バーを利用するのはもっぱら横浜港で商売をする外国人商人だった。日本人が洋酒をたしなむようになるのは明治維新が過ぎた頃。日本人が「カクテル」という酒の楽しみ方を知ったのは、ジンが上陸したのがきっかけとも言われている。同時に、この頃になってやっと、「日本人がつくる日本人のためのバー」がつくられたのである。
その発祥は、「カフェ・プランタン」――1911年3月、京橋日吉町、現在の銀座8丁目にオープンした、珈琲と酒の店――と言われている。「カフェ・プランタン」は、カフェとしてもバーとしても、“日本人がつくる日本人のための”はじめての店だったという。
その後、1923年の関東大震災を経て一時的にバーは減ったものの、復興とともに次々にバーがオープンしていき、東京都内でも1000軒を超えるバーが営業していた。
一方、日本初のバーがホテルで誕生したように、日本ではホテルとバーは切っても切れない関係であった。街に増えゆくバーと同じ、またはそれ以上にホテルバーも発展していった。特に、明治末期から昭和にかけて、日本で「カクテル」の流行をリードしていったのはホテルバーではないだろうか。その中でも、1873年創業の横浜グランドホテルは、最先端のカクテルを味わえるとして人気を呼んでいた。
前回の「バーの歴史」でも述べた通り、横浜のホテルバーは横浜港で商売をする海外のゲストが多く利用していた。そのため、カクテルの好みもうるさく、日本人のバースタッフはオーダーひとつとるのにも、手を焼いたそうだ。リクエスト通りのカクテルを出せるまで、妥協は許されない。そんなゲストの対応をしていくうちに、バーテンダーとしての知識、技術、そしてセンスが磨かれていき、今日の「ホテルバーマン」として成長していった。
やがて、第二次世界大戦の影響を受け、酒の自由販売が規制されたうえ、バーの営業禁止令により、カクテルだけではなく街のバーそのものが低迷する時代となる。それに対し、ホテルバーは米軍将校のために営業がゆるされていた。ここでも、味にうるさい外国人ゲストのリクエストを叶えるために試行錯誤したため、日本のホテルバーマンはさらに実力を身に付けていった。このことが、戦後から今日までのカクテル文化・バー文化を築いていく基盤になっていった。
戦後、そんな彼らの努力が実ったのか、日本では第一次カクテルブームが訪れ、誰もが自由に洋酒やカクテルを楽しめる時代となった。同時に、街のバーは一般大衆向けで安く酒が飲める場、ホテルバーは本格的な洋酒が楽しめる格調高い空間として、文化は二分されたのである。
しかし、現在は街のバーとひとことで言っても、オーナーのこだわりが生きた独特なムードを楽しめる店や、居心地のよい馴染みのある空間を提供している店など、そのタイプはさまざまだ。
ホテルバーと街のバー、それぞれに歴史があり、それぞれに良さがある。
その時の気分やシチュエイションによって使い分けていただきたい。